金森宗和重近
金森宗和(天正12年(1548)〜明歴2年(1656))は飛騨高山城にて、可重[ありしげ、よししげ]の嫡男として生まれた。宗和流の祖。祖父の長近は信長に仕えた武人であり、利休に茶を学んだ茶人であった。信長の死後は秀吉、家康に仕え、慶長12年(1607)に84歳で歿した。長近の嫡男であり宗和の父である出雲守可重は濃州長屋将監の子であり、長近の養子となった。茶道を千道庵に学び、元和元年閏6月3日、58歳で歿した。
宗和は、飛騨に居る時に父可重によって茶道に入った。家督を継ぐ身であったが、慶長19年(1614)父に勘当され、家督を異母弟の次男重頼に譲って一時山代国宇治に身を隠した。勘当に就いては諸説あるようで、宗和隠密説なども見られる。宇治に於て茶師宮林源造方に寄寓したと言われ、同家には宗和自作の門も残っている。又、同家の茶銘「祝の城」「明石」の二種は宗和の命銘と伝えられ、宗和が茶の木の古株を使って人形を彫ったのが宇治の茶の木人形の始めとも言われている。
その後宗和は京都に移り、大徳寺の紹印伝双に参禅して剃髪、宗和と号した。公卿門跡に出入りして専ら茶道に親しみ、その茶風は姫宗和と言われた。その後加賀藩主前田利常侯が高禄をもって召抱えようとしたが、宗和はこれを辞し、寛永2年にその子七之助が千五百石を禄して加賀藩に仕えることとなり、十五年後には二千石に加増になることとなった。
こうして七之助は金沢において茶道宗和流の興隆に尽力した。また、宗和は京都で斯道を貢献し、京焼の祖といわれる野々村仁清を指導する等の功績を残した。近衛信尋(応山)、一条昭良(恵観)、鳳林承章、小堀遠州、片桐石州等とも交友があったことが知られる。
明暦2年12月16日歿、享年67歳。法名は甲堅院殿徳英宗和居士。京都上京区寺町天寧寺に葬られ、隣には宗和の室(遠藤但馬守の女、甲珠院殿月渚慈円大姉、慶安4年11月3日没))の墓も並んでいる。