侘びと寂の違い2
1.侘びについて
世間の女にしあらばわが渡る痛背の河を渡りかねめや
今は吾は侘びそしにける気の緒に思ひし君をゆるさく思へば
白妙の袖別るべき日を近み心にむせひねのみし泣かゆ
見てのとおり二首目が「侘びぞしにける」となっている。この三首は紀女郎の夫が旅に出ることになり、 その日が一日一日近づいてくるのにたまりかねて詠んだとされる。 当時の旅は危険が多く旅の別離がそのまま今生の別れにつながることが多かった。 「気」とは生命のことであり愛しい夫を失う生への喪失感、こんなことを侘びという言葉で表現したかったようである。 他にも巻の四の大伴家持が坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈れる歌十五首の中に
思ひ絶えわびにしものをなかなかに何か苦しく相見そめけむ
とある。他にもたくさんの例があるがきりがないのでここでやめておく。
相坂のあらしのかぜはさむけれど、ゆくゑしらねばわびつつぞぬる
が挙げられる。
この歌は後に小堀遠州が中興名物に列した古瀬戸丸壺の茶入相坂丸壺の歌銘の本歌に取り上げたので有名となった。
遠州としては「この機会を逃したらいつこんな茶器を手に入れられるかわからぬ」という思いを
歌の男の気持ちと重ねていたようだ。
2.寂びについて
3.補足
たねまきしおなじたけだの末なれど
あれてぞ今は野になりにける
と紹鴎が詠んだとするエピソードは後世の創作であるようだ。祖父仲清は応仁の乱で戦死した。
父信久は武野を名乗り、堺に定着し、甲冑に使用する製革を生業として富を築く。
紹鴎は幼名を吉野松菊丸といいやがて新五郎を名乗るにいたる。
紹鴎は二四歳になると京都へ上り三条西実隆に歌道を学び、古今の伝授を受けた。
茶人が気持ちを表すのに古歌を引いたり、和歌の形式で述べたりするのにはここに源があるようだ。
実隆を通して禁裏へ献上品なども差し上げていたようである。
また志野流の香道をおさめ、茶道は珠光から学んだとされる。
(ただし珠光は紹鴎が四歳のときに没しているので直接指導を受けたわけではない。)
享禄五年(一五三二年)に出家して紹鴎と名乗る。
表向きは母の遺言ということであったが父が世話になった三好氏と母と関係がある本願寺の争いの板ばさみを避ける
ためと考えられている。天文六年(一五三七年)に堺に戻る。
弘治元年(一五五五年)に信長の茶会の帰途吐血して死亡する。毒殺との見方が強い。
4.まとめ
5.引用・参考文献
平成十七年十ニ月十三日 執筆 Y. Wakazawa.