明治から戦後に至るまでの茶道の変革と現代的イメージの創出
明治以降茶道の受容者層は大きな変化を遂げた。男性から女性へ、特権階級から大衆へといった具合にである。
戦国時代から江戸時代に至るまで茶道の担い手は男性、しかも武士、貴族、豪商といった社会の一部の特権階級に
属する人間たちであった。これは織田信長が自身の政治政策の中で茶道を積極的に活用し、茶道を学ぶことが武将
たちの中で特別な意味を持つようになったことに起因する。近世においてはこれに公家、商人が加わり三種類の
受容集団が存在したことが明らかとなっている。これが明治維新になり状況が大きく変化する。まず旧来の幕府は
崩壊し、茶道の主たる担い手であった武士階級は没落していく。さらに文明開化政策から西洋的な価値が絶対視
され、社会における茶道の地位は下落した。これを境に茶道はもはや特権階級が担うべき技芸ではなくなったのだ。
では茶道は明治以降誰によって引き継がれていくのか。それは女性である。茶道はこの後女子教育の実践教科として
生き残っていくのである 。福沢諭吉は『新女大学』において女子の教育における茶の湯の重要性を説き、家計の許す
限り稽古させるべきであることを力説している。明治維新の次に受容者層の大きな変化があったのは戦後である。
国民所得の増大によって余暇が生まれ、中流家庭の人間にも茶道を学ぶ機会が与えられた。カルチャーセンター、
テレビといった手段を通じて、一般の人々も意欲さえあれば茶道を学べるようになったのである。加藤恵津子は
一般の人々を茶道に向かわせた要因の一つとして白木屋(現東急)日本橋店の千利休展を挙げている 。
茶道は明治期において男性から女性のものへ、戦後において一部の人のものから大衆のものになったのである。
次に家元制度の変遷を探ることで、茶道における権威について考えていきたい。家元制度は江戸時代より以前から
存在したが、その様相は江戸・明治・戦後の三つの時代区分の中で大きく変化していく。江戸時代において家元は
大名たちの庇護の下で茶道の教授組織を形成し、各藩の政治組織の一部として取り込まれていった。
ただし、この段階では家元自身の権威はあくまでも大名や将軍といった庇護者に由来するのであり、家元自身に
大きな発言力があったとは考えにくい。実際江戸時代中期以後に茶人の文盲や滑稽ぶりを嘲笑する書物が出回って
いたことや家元が遊芸稼ぎ人と見なされていたことを考えると、家元をめぐる状況は今日とはだいぶ違っていた
ことがわかる。明治になると今まで述べた大名-家元の階層構造が廃藩置県によって崩壊する。茶道の権威は地に
落ち茶道具が二束三文で売られ、釜が火消し壺として使われるほど家元の生活は窮乏した。藩という後ろ盾を失った
家本たちが保護者として求めたのは各地に存在する「数寄者」と呼ばれる者たちだった。彼等は生まれながらにして
富裕で趣味生活に走ることができたごく一部の人間である。数寄者たちの興味の中心は茶道具の蒐集であったが、
それ以外にも自由に趣向を楽しみ茶会記や随筆も出版した。数寄者のコレクションは今日の美術館の茶道具蒐集の
基礎を作ったことで評価されている。藩侯の禄を離れたことで各地を自由に旅することが可能になった家元たちは、
各地を行脚し彼らに庇護を求めた。例を挙げれば表千家の家元は明治六年と同十五年に山口県萩に滞留し、後には
遠く長崎にまで足を延ばしている。家元たちは数寄者たちの援助を受けてその教授組織を復活させたが、これ以降
茶道の発展、普及、革新は彼らを保護した数寄者によって担われていくこととなる。これは多くの茶道論が
益田鈍翁を始めとする数寄者たちによって論じられていることからも明らかだろう 。
そのいくつかを紹介すると「茶是常識」を座右の銘とし、茶を通した融和を目標とした益田鈍翁。
茶の湯は本来趣味である、趣味としてこれを楽しめばこれで十分と主張した高橋箒庵などがいる。
数寄者によってリードされた茶道は流儀の茶から自由であり、大名−家元構造が作り出した形式的な茶道に新しい
気風を巻き起こしたことが彼らの功績だろう。ただし、彼らも戦後のアメリカによる財閥解体、爵位廃止、
税制改革による財産税や相続税の課税の波には逆らえなかった。戦後の復興と茶道の普及をリードしたのが裏千家を
中心とする家元たちである。裏千家十四世家元淡々斎千宗室は戦後まもなくのころ「まづ何よりも急務なのは、
女学生達が長らくの動因や戦時生活の結果、女子のたしなみと云ふことを、すっかり忘却してゐたかの感が
ありますが、これを軌道にもどすことが必要と思います。(中略)今後はもつと、徹底的に普及させ、茶人といふ
特殊な名称の限られた人のみのものではなく、大衆に呼びかけたい」とその抱負を述べている。
ただし、彼らの道のりは決して平坦なものではなかった。経済的問題や物資の調達も勿論その一つであるが
それ以上にごうごうたる家元批判があった。次の文がその様子を如実に伝えている。
「ご承知の如く憲法は変つた。宮様の特権はなくなつた。財閥は解体され、農地改革によつて大地主は没落する。
財産税の徴発によって貧富は調節され、(中略)先祖伝来の特権階級は許されない。(中略)独りお茶道だけが
家元の暖簾のおかげで、未熟の若輩がいつまでもいつまでも若宗匠なぞと尊敬せらる理由はないといふ事を先づ
以てご本人が大悟して、そこに生きる道、行く道を考へなくては駄目だと思ふ。」
このような批判をかいくぐり、家元たちは茶道界を復興させていった。ここにおいて初めて家元は他者の権威の
借用ではなく、自らの努力によって自らの権威を確立させたのである。茶道の権威は大名、数寄者を経て戦後に
至って初めて家元のものとなった。これが茶道における権威主体の変遷である。
最後に社会における茶道の位置付けについて考えてみたい。江戸時代では幕府統治の中で、明治時代にあっては
教育の場において役割を担ってきたことは上で述べた。この流れが戦後において大きな変化を見せる。茶道が
日本人の心の拠り所としての位置を獲得するのである。戦後は日本人にとってアイデンティティ危機の時代で
あった。敗戦によって今まで強く信じられていた日本人的価値観が否定され、伝統文化の権威者たちも戦争への
協力責任からの批判を免れることは出来なかった 。このような流れの中で茶道を芸術・道徳・哲学・宗教を
内包した日本の総合文化として捉えようとする動きが起こった。京都大学の久松真一がこの流れの中心人物である。
彼は仏教哲学が専門であり、西田幾多郎に直接学んだ京都学派の一人だ。久松は危機に瀕している日本の各種芸能、
価値観、風習、歴史などを茶道という軸によって束ね、日本人のアイデンティティの再構築を図った。また哲学者の
谷川徹三は『茶の美学』において茶道を四つのファクター−「社交的なもの」、「修業的なもの」、
「芸術的なもの」、「儀式的なもの」−に分解し、芸術性にウエイトを置きながら茶道を複数の要素を束ねる軸と
しての見方を提出した。茶道が政治や経済主体から離れて、個人の内面と関わるものとして捉えられるように
なったのはこの頃からであろう。また一つ付け加えて置くならば、この一連の潮流の萌芽は岡倉天心の『茶の本』の
執筆にまで遡るのではないか。茶の本における次の一節は、上記の久松の論調とどこか共通するものを感じる。
”The Philosophy of Tea is not mere aestheticism in the ordinary acceptance of the term, for it expresses
conjointly with ethics and religion our whole point of view about man and nature.(中略)it is geometry,
inasmuch as it defines our sense of proportion to the universe. It represents the true spirit of Eastern
democracy by making all its votaries aristocrats in taste. (中略)Our home and habits, costume and cuisine,
porcelain lacquer, painting-our very literature- all have been subject to its influence.
No student of Japanese culture could ever ignore its presence.”
以上で述べたように茶道は戦後において政治や経済の一手段から、日本人のアイデンティティを保障しえる
日本文化の軸、土台へと社会的な位置、役割を変化させていったのである。
本稿ではこれまで茶道の受容者層、家元制、社会での位置付けの三つの観点から茶道の性格が明治・戦後を経て
それまでとはどう変化していったかを探求してきた。男性から女性へ、特権階級から大衆へ、大名、数寄者から
家元へ、技芸から総合文化へ。明治から戦後は茶道が大きく揺らぎ変わっていった時代であった。
意外なことに私たちの茶道のイメージ、固定観念の源泉は近代から現代にある。この時代の中で茶道はだんだんと
その政治性を切り離され、その文化的側面が強調されていった。茶道は決して過去の古臭い儀礼なのではない。
その時代の社会との関わりの中でその意義を再定義され、社会システムの一部としての役割を担ってきた。
そのような点で茶道のあり方は極めて現代的であり、社会との関わりの中で成立しているものなのである。
2.引用・参考文献
平成十八年七月二十日 執筆 Y. Wakazawa.