「鐘馗」
1.はじめに
―(中略)―
中国では虚耗は貧神であるので貧を駆逐する意味から正月に鍾馗の図をかける風習がある。
日本では幟や掛け軸に描かれ、端午の節句に用いられる”
「鍾馗」とはどのような記号なのだろうか?
2.伝承
「玄宗皇帝の寵妃、楊貴妃は大病を患い、玄宗がそれを案じているところに鐘馗の霊が現れる。
日本では、この「皇帝」の他に、鐘馗を題材とした能の演目として「鐘馗」がある。
また、神楽で鐘馗を題材にしたものも存在するようだ。
このように、病気平癒の神としての信仰がベースとなって、いくつかのパターンが生まれた。
3.信仰
「ショーキサマは東蒲原郡には六ヵ所あり、最近衰滅したものが二ヶ所ある。
毎年信仰する人たちの持ち寄るワラをもととして、作りかえられることと、
股間の雄大な陽物で有名な民間信仰であり、東蒲原郡以外には見られない。
(中略)今は中国で信仰するものはいない。」
(「ショーキサマの文献」、赤木源三郎、『高志路』209号、1966.8)
ということである。
4.美術
※ 藤澤友吉(1866〜1932):藤澤友吉商店の創業者。「樟脳」で成功する。
5.引用・参考文献
平成十八年十二月二十七日 執筆 Y. Nakajima.
“唐の玄宗が、病に臥せっていると夢の中に一匹の小鬼が現れた。
玄宗が「何者だ」と問うと、小鬼は「自分は虚耗である。
虚は空虚であり、人の物を盗んで戯れとし、耗は人の家の喜事を耗して憂いをおこすのだ」と言う。
そのとき、また別に大きい鬼が現れる。その風体は、"破帽を頂き藍袍を着し、角帯を繋け朝靴を穿ち"
というものであり、小鬼を捕らえてそれを喰らった。そして、
「自分は終南山の進士、鍾馗である。高祖の武徳の御世に科挙を受けたが落第し、故郷に帰るのを恥じて
自殺をしたものである。そのときに官を賜って葬られたので、今、世間に存在する虚耗妖?の類を除くのだ」と
いって消える。
夢から醒めると、玄宗の病は癒えていた。そして画家呉道玄に鍾馗の姿を書かせた。
それが鍾馗の図の始まりとされている。
伝説の出典としては、甲子夜話続篇巻三十七に清人趙翼『?餘叢考(がいよそうこう)』の引用がある。
さて、その伝説の梗概であるが、能の「皇帝」の筋を参照してみよう。
鐘馗は、その昔進士に落第して自殺したとき、官を贈り手厚く葬ってもらえたことに感謝し、
報恩のために楊貴妃の病を平癒してみせるので明王鏡を枕元に立てるように、といって立ち去る。
はたして病鬼が出現し、鐘馗はそれを討ち取って楊貴妃の病を平らげ、守護の神になる約束をして消えてゆく。」
(佐鳴謙太郎『謡曲大観』より、筆者が要約)
『謡曲大観』の編者である佐成謙太郎は「皇帝」の解説で、
「鐘馗の事はわが国に於いても屡々絵に描かれ人口に膾炙した説話であるが、
この事を記した先進文芸は全く見当たらない。
恐らくは〔三笑〕〔竜虎〕などと同じく絵によって流布していた伝説を、
謡曲作者が一編の戯曲に作りなしたのではなかろうか」としている。
同じく、鬼を退治するところから屋根瓦の上に載せて魔よけにされることもある。
民間信仰としては、新潟県は東蒲原郡、正木神社のご神体がショウキサマであったようだ。
同郡では他に、夏渡、平瀬、大牧にもショウキサマがあったという。文献によれば、
今から四十年も前の文献であるから、この風習が現存しているかどうかが不安であったが、
Googleで検索してみたところ、東蒲原郡では鐘馗祭を開催していることがわかった。
数年に一度、作りかえているようだ。
ただし、ここで作られているのはあくまでも「ショーキサマ」「ショウキサマ」という道祖神の一種であり、
中国の「鍾馗」との関連よりも、「正木神社」との関連が深いように思われる。
また、京都などの町屋敷では瓦に鍾馗の置物を載せて悪鬼を邸内に入らせないようにするという風習があるようだ。
しかし、鐘馗は信仰対象としてはひどくマイナーであるらしく、民俗学の事典では項目として独立しておらず、
「端午の節句」の項にも掲載されてはいなかった。
『鐘馗聚』には、初代藤澤友吉(※)翁が蒐集した相当数の掛軸や根付等の写真が掲載されている。
例えば、雪舟、永徳、若冲、広重、北斎、また橋本雅邦や横山大観の手になるものも存在する。
※ 同商店は戦中に藤澤薬品工業に改名、現在は山之内製薬と合併しアステラス製薬となっている。