ひらひらレポート:金森宗和公350年忌茶会参会記
1.序
このお茶会は、東京宗和会が発起人となって開催されました。
このような素晴らしいお茶会だったのですが、金森宗和公とは、一体ドウいう方だったのでしょう?
宗和流というご流儀は、名前だけは伺っていましたが、実のところ、ひらひらもそれほど詳しい知識を持ち合わせてはおりませんでした。そこで、お茶会の前にまず金森宗和についてできるだけ予習してみました。
金森宗和は、百貨辞典風に一言で云えば、『公家風の優美さが特色とされる茶道の一流派"宗和流"の祖』です。
しかし、千利休のように弟子たちや同時代人の証言が豊富に残されているわけではなく、まとまった形での伝記や評伝が残されてもいないので、予習にはカナリてこずりました。
が、調べてみると、思いのほかサスペンス的な人物像が徐々に浮かび上がってきました。
彼は、天正12年(1584年)に、飛騨の高山城にて、金森可重(ありしげ)の嫡男として生ま
れています。彼の父親は美濃国の高山城主でしたが、当時から数寄大名として知られてい
たようでいくつかの名物を所持していました。宗和公は金森家の嫡男でしたから、本来は、
ゆくゆくは国持ち大名として戦と謀略の毎日に明け暮れることになるはずでした。しかし、
慶長19年(1614年)に父親と“政治的路線対立”のため勘当されてしまいました。そこで家
督を異母弟の次男金森重頼に譲って生母とともに宇治に移り、後に京都に隠棲します。
慶長19年といえば、徳川家康が方広寺の鐘に刻まれた"国家安康"の文字に「家康の名前を切り離すとはけしからんッ」と"ブチ切れ"ることにより徳川家VS豊臣家の対立が表面化し、風雲急を告げた年ですね。
ここで思いがけなく知ったのですが、宗和公の母は遠藤盛数の娘です。遠藤盛数の妹、つまり宗和公の大叔母はあの山内一豊の正室千代です。宗和公は山内家とも血がつながっていたのですね。
それはさておき、京都では大徳寺の紹印伝双に参禅して剃髪、宗和と号しました。
彼は茶道だけではなく、焼物の歴史にも大きな影響を与えました。京焼の祖といわれる野々村仁清を指導して京焼の優品を数多く焼かせ、それらを茶会に用いることによって同時代の多くの茶人に"御室焼(おむろやき。仁清の作品はこう呼称された)"を広めています。
このように宗和公は文化面では華々しく活躍しているのですが、なぜかまとまった評伝などが残っていません。すこし不思議です。
モウ一つ謎があります。
個人的には、"豊臣家が徳川家に勝った時も金森家の血が残るよう血統のリスクヘッジとして勘当した"という説が一番うなずけます。
そう考えると、宗和公は、本当に純粋な茶人(茶堂)として宮中に出入りしていたのだろうか?という気がしてきます。宗和公は表向きは茶堂として宮中に出入りしつつも実際は何らかの別の役割も内々で持っていたのではないか?常修院宮や近衞予楽院とはお茶以外の点でも宗和公との接点を色々持っていたのでは。。。。。。
近衞予楽院の子孫に当たる近衞文麿公爵は、太平洋戦争の末期にあたる昭和20年5月に、軽井沢にあったY家のお茶室(現存せず)で茶会を開くという名目でひそかに木戸幸一侯爵など廷臣を集め、終戦工作をされたことがありました。この軽井沢茶会は昭和史の書物にはあまり出てこないようですが、俗に"歴史は繰り返す"といいますので、文麿公の先祖である予楽院も同じようなことをされていたのでは。。。。。?
もしそうだとしたら、宗和本人が自身の足跡をできる限り残さないよう意識的に努めてきた可能性もありそうですね。そう考えると、流儀の祖であるにも関わらず記録が少ない理由も少し納得できそうな気がしてきました。
さらに調べ進めていくにつれて知ったのですが、"宗和流は公家風の茶"と云われるようになったのは、かなり最近(明治末〜昭和[戦前])らしいのです。宗和公がパトロンとなって育ててきた仁清の華やかな茶陶が明治大正昭和の茶人達に見出され、愛玩されてきた時期と重複しています。仁清は皇族や公家と関係が非常に深い仁和寺門跡の御用窯でもありましたから、そこから"公家に近い茶人金森宗和"というイメージが生まれてきたといえそうです。
このように、なかなかサスペンス性を持っているというか、色々想像をかきたられてる人物でしたが、ついに明暦2年(1656年)にその数奇な生涯を閉じています。享年72歳。
ところで、金森宗和自身は自ら"宗和流"を打ち立てたわけではありません。"宗和流"が成立したのは宗和公の死後です。
.................以上が、お茶会前にひらひらが予習した"金森宗和"像です。このような予備知識を持ってお茶会に伺ったのでした。
2.供茶席
今回は、ひら師弟にひらひら師匠のご友人のWさんの三人でお伺いしました。
当日は九時半前に根津美術館に到着。門のところにテーブルを出して受付がありました。ここで芳名帳に毛筆で署名して会記を頂戴し、すぐ園内に入りました。その時、お客様名簿をチラと拝見しましたが、約200名様をご招待のご様子でした。
美術館の本館は、すでに着工されていて、大変立派な雨よけ用の仮屋根の下で鉄筋の柱が組み立てられているところでした。以前と比べてカナリ広いというか立派な施設になりそうな感じでした。
「今から完成が楽しみだねェ。。。。。。。( ̄▽ ̄)」
深みどりに彩られた園内は以前と全く変わらない様子でした。
今日は、下記のようになっていました。
弘仁亭 供茶席 薄茶 主 増田宗蒔(東京宗和会 理事長)
石段を降りて弘仁亭と一樹庵のそれぞれに通じる分かれ道のところで、ひらひら一行は立ち止まりました。
ひらひら:「うーん、どうしようかなぁ。どっちを先にするか。。。。。」
というわけで、ひら一行はまず弘仁亭に伺うことにしました。
Wさん :「まだ誰も来ないわね」
ひらひら一行は弘仁亭の入口のそばに置かれた椅子に掛けて待ちました。
そうしていますと華やかな着物を召したご夫人方が連れ立ってきました。ご一行はすれ違う方々とにぎにぎしく挨拶を交わしつつ一樹庵の方に歩いて行かれました。
ひらひら:「官休庵様の御社中みたいだね」
ひらひらはウチの師匠のジミーな紫色の色無地を眺めながら言葉を継ぎました。
ひらひら:「そういえば、年回忌茶会だから色無地かなと思っていたけれど、訪問着をお召しの方が多いのね」
ふと視線を転じますと、スーツ姿の長身で痩躯の老紳士が奥様と一緒に庭園の石段を降りてこられるのが見えました。老紳士も分かれ道のところで少し立ち止まって奥様と二言三言言葉を交わしておられましたが、弘仁亭の方に歩を進められました。
ひら師匠:「お譲りして」
ひらひらは立ち上がって「ドウゾ」とその老紳士に席をお勧めしました。
ひらひらは内心「品がある方だな。でもどこかでお見かけしたことがあるような気がする。光悦会だっけ?イヤ別の場所だったような」と思ったのですが、「まあいいか」と思い直して座りなおしました。
そうしていると読経の声が席中から流れてきました。
ひらひら:「ずいぶん力強い声明だね」
読経が終わるとほどなくして席が開きました。
我々は例の上品な老紳士の後に続いて席入りしました。
ひらひら:「ああ、この方がさっき読経をなさってらした方ね。サテ、まずはお床拝見しよっと。。。。。。」
我々はお床の前に進み出ました。
宗和公の頭上には、宗和流六代金森成章御家元の賛がありました。
芳園其多矣物其嘉矣菁菁茗茶衆人美愛之無窮也
ひらひらはこの賛のよく意味が分かりませんでしたが、とりあえず一礼してお掛物の前に目を移しました。蝋色の宗和卓に三具足が載せられており、お茶が供えられていました。朝香宮より拝領の桐銀彩天目です。
ひら師匠:「すばらしい天目茶碗ね。桐の模様が銀で描かれて・・・・・・」
我々はお床拝見を済ませると下座、書院のお向かいにある窓の前に座りました。弘仁亭の場合、下座の方が席全体がよく見渡せて、かつ床のお掛物を拝見しながらゆっくりお茶をいただくことができるのです。
当然ながらお坊様がお正客になったのですが、お次客がなかなか決まりませんでした。"正客バトル"はよく見かけますが、"お次客バトル"はちょっと珍しい風景でした。お珍しいご流儀なので、皆様やはりお作法などが心配になって腰が引けておしまいになるのでしょう。黙って様子を見ていましたら、どなたかが声を上げられました。
「徳川さん、どうぞこちらに」
どなた様なのだろうと思っていたら、先刻の背の高い老紳士でした。
小声ひら:「そういえば、せんせー、あの方、○○会の展覧会にもいらしてたよ」
そうこうしているうちにお点前が始まりました。まだうら若き女性の方でした。ひらひらはお点前さんを注視。やはり千家流とはイロイロ違います。
お点前さんを挟んで、お正客様と席主様(東京宗和会 増田宗蒔理事長)の対話が進みます。
席主様のご紹介によりますと、お正客様は、金沢の宗和の嫡子七之助が金沢に移ってからの菩提寺、高巖寺さん(臨済宗妙心寺派)のご住職様なのだそうです。翌日が金沢宗和会での宗和忌とのことでお忙しい中はるばるお出ましになられ、その場でお経一巻あげて下さったのだそうです。ご住職様は春風駘蕩たる温容を絶やさないお坊様でいらっしゃり、徳川さんを始め我々一同にも色々お気を使ってくださいました。
和尚様は挨拶が済むとお軸についてお尋ねになられました。ご席主様のご説明は次の通りでした。
「このお軸には宗和流六代の金森成章の賛がございますが、宗和公の参禅の師と言われる伝叟紹印の居た金龍院に伝わる宗和像の写しといわれております。残念ながら本歌は現在行方不明と言われておりますが、現在知られている宗和像の中でも、この掛け軸が最も古い部類に入ると言われております」
賛は次のように読むのだそうです。
芳園ハ其レ多ク、物其レ喜ブ 菁菁タル茗茶ハ衆人之ヲ美愛スルコト無窮也 而(しか)シテ后(のち)ニ宜シク禮譲シ、マタ宜シク中和ス 故ニ後世天下之ヲ喜楽ス"(注:原文の"譲"は旧字)
ドウいう意味なのかというと、
芳しい園は多くあり、そこで採れた物は好まれる。とりわけそこに茂る茶は人がこぞって称美し愛でることきわまりない。そして後に(茶を飲むことにより)礼譲を知り、中和を知るのはもっともなことである。よって後の世に天下が之(茶の湯)を喜び楽しんだのである。
現在の世の茶道隆盛を称える賛だったのですね。
ひらひらはお軸から点前畳に視線を転じました。
その時お正客が口を開かれました。
「ええ、当流では炉縁を高めに置くのが習いなのです」
風炉先は宗和公の子息で、加賀に当流を伝えた金森七之助の好みでした。
お運びさんが緊張した面持ちでそろりそろりと黒い縁高を運んでこられました。中を見てみますと鶴屋八幡製のきんとん菓子"菊寿"がありました。色々なご苦心の末にこのように大変立派な追善茶会ができたというご流儀の方々の安堵と喜びが伝わってくるお菓子でした。
お茶が点ちました。我々もお相伴。とてもおいしいお茶でした。
・・・・かくして、とてもなごやかな雰囲気のうちに席は終わりました。
宗和好の溜塗手付莨盆が優美でした。やや太めの煙管が1本だけついていて、下のほうに小さな抽斗(ひきだし)がついています。手も細くて、ガサツな庶民が使ったら一日で壊れてしまいそうな華奢な莨盆です(笑)。
その右隣に細かい色絵模様がびっしり描き詰められた美しい結文形のお香合。仁清作です。根津美術館が特別に提供してくださったものなのだそうです。合口の造りを拝見したかったのを遠慮しましたが、それでもガラスケースを通さずに細かい描き込みをごく近くから拝見できて良かったです。さすが仁清、精密な描き込みが素晴らしいです。。。。。。
続いてお点前畳に伺ってお道具拝見。
主茶碗は、宗和流14代御家元宗榮様がお造りになった萩茶碗でした。高台がやや高くなった半使形の、とても寂びた味わいのある釉調の素晴らしいお茶碗でした。古萩と云われてもおかしくない作品でした。ご銘は季節にふさわしく"初霜"でした。
替茶碗は薩摩焼の胡蝶図のあでやかな色絵茶碗でした。胡蝶。。。。。。
お茶器は古典的な文様である菊桐文様の蒔絵を施した大棗でした。作品は宗哲でした。宗哲は千家十職として知られてはいますが、昔は千家だけではなく御所や各ご大家の御用も務めていたことを思い合わせると、うなずけるお道具組みです(ちなみに宗哲は御所の御用をつとめる時は"豊田八郎兵衛"と名乗っていました)。
お茶杓は、宗和流14代御家元宗榮様のご自作でした。"おもかげ"というこれまた今回の350年忌のために削られたようなお茶杓。。。。。。。
御流祖に対する思い、そして350年間の伝統を守ってこられた宗和流14代宗榮御家元に対する思いの深さに心洗われる思いで名残惜しく退出した我々だったのでした。
最後に、このお席の会記は次の通りです。
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弘仁亭 供茶席 主 増田宗蒔(東京宗和会 理事長)
床 金森宗和公 金森成章筆
前二三具足 蝋色宗和卓二載セテ
床脇 仁清 色絵結文香合
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3.展観席
一行が到着したとき、斑鳩庵には他のお客様がいませんでした。たまたま時間的に端境期だったのでしょう。
「おお。。。。。。。!」
にじり口からにじり入って顔を上げたひらひらは斑鳩庵の床の間を見るなり思わず感嘆のため息を漏らしてしまいました。
そこには、名物の井戸香炉「此世」(重要美術品)が根来卓に載っていたのです。
將亦御~樂之義昨日令申候ことく
ドウいう内容かといいますと、"此世の香炉を小堀遠州にも見せたが、宗和にも見せてやって欲しい。見せるのはあまり遅くならないよう早めにしてほしい"という内容です。
この消息の受取人、一条恵観公は、後陽成天皇の第9皇子で一条内基の養子です。
ご参考(槐記 享保十八年九月十一日付の記事):
今回の茶会の主役、宗和公ゆかりの香炉、しかも"此世"という追善にこの上なく合致した銘を床飾りされるとは。。。。。。。
ひらひらはウチの師匠を顧みてしみじみ口を開きました。
ひら師匠@体育会出身はグイッと力強くひらひらのお尻を床前に押し出しました。
ひらひら:「およよよ(@o@;)」
「まあいいか」
この香炉は一般的な香炉のような形はしていません。どちらかといえば口が端反になっている塩笥形の蓋物という感じで、小さくて丸いつまみの蓋がついています。釉調は典型的な井戸釉です。が、時代が味わい深い古色をかもし出しており、香炉の胴に一本の胴締めがかすかに通っています。華美さは全くなく、千利休の侘び寂びを感じさせる品でした。
フトある事を思い出したひらひらはさらに身を乗り出してしげしげと香炉を拝見しました。
ひら陰の声:「う〜ん、やっぱり大きな繕いがあるね。。。。。。」
実は、この香炉は、かつて大きく破損したことがあるのです。
この売立の時に買い取ったのは藤田男爵家(藤田伝三郎氏)でした。落札価格はなんと3万円。大正4年の3万円といえば、現在の貨幣単位にすれば少なくとも5000万円を軽く超えると思います。貧乏人のひらひらにはちょっと想像できないほど巨額な落札額です。
その後、この香炉は14年後の昭和4年の藤田男爵家売立に出品され、この時に根津財閥が買い取っています。だが、この時の落札価格は2万4110円です。大正時代のインフレを経た後だというのに6000円も値下がりしているのはどうしてでしょう?
真相はこうです。
でも、茶道具では伝来も大変重視されます。大きな傷があってもそれを上回る魅力が華々しい伝来がありましたから、結果的に根津家のお蔵に納まりました。かくしてのちに根津美術館に寄贈され、いまひらひらの眼前に鎮座しているのです。
道具商の言葉で言えば"此世"は"残念物(モノ自体はいいのだがキズがある道具を指す茶道具業界の隠語)"かもしれません。
ひらひらは改めて床に一礼すると点前畳に視線を移しました。
その隣に安南蓮華文のお水指。口が蓮弁になっています。どことなくにじんだ感じの文様の描き込みが安南らしさを出しています。今回は八角形のつまみがついた塗蓋でしたが、仁清の替蓋が2つもついていました。ひとつはごく普通の替え蓋、もうひとつは手付の替え蓋。これには宗和公の御書付もついていました。いかに愛蔵されていたかがうかがわれます。
道具畳に目を転じると、そこにはお茶入とお茶碗が服紗の上に飾られていました。
ひらひら:「エッ"正木"? もしかしてこれ本歌?ホント?すごーい」
ソウなのです。中興名物の瀬戸正木手の"正木"が鎮座していたのです。
このお茶入は片身替りで黄変しているのですが、そこが正木の葉の紅葉のようだということで"正木"と命銘されたのです。季節にピッタリの御銘のお茶入です。
お茶入もすばらしいのですが、個人的には、お茶入の隣に飾られていたお茶碗の方に心ひかれるものがありました。狂言袴です。ご銘は"ひき木"でした。丸紋の象嵌が美しい青磁釉の筒茶碗です。このお茶碗の内箱には宗和公の、外箱には久須美疎安のお書付が添っていました。茶碗を上から拝見していたひらひらは、茶道口のところに座っておいでの美術館の方に声を掛けました。
ひらひら:「"ひき木"には茶だまりがないようでございますね」
御茶杓は道安作でした。随流斎の筒書が添っていますが、銘はありません。直斎の筒書のある少庵の茶杓と一双入りになって箱に収まっていました(すごい!)。
このように、重厚ながら宗和公のお茶風を余韻豊かに味わうことができたひらひら一行だったのでした。
最後に、このお席の会記は次のとおりです。
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斑鳩庵 展観席 主 根津美術館
寄付
本席
釜 芦屋 鶉籠 宗和所持 玄々斎箱書
以上
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4.濃茶席
ひらひら「せんせー見てッ。つくばい、えろうキレイにしてはる。。。!」
。。。。。。ようやく席入りできました。期待を胸にいつものようにまずお床拝見。
お床には幽玄な水墨画が掛かっていました。
床脇の棚には、愈好斎宗匠が近衞文麿公から拝領した「ものかは香箱」の写しがありました。
ひら師匠:「ものかは香箱ってどういうものなの」
ご参考までに槐記(享保十一年十月二十日)を以下に引用してみます。
御家(近衞家)ニ、物かわノ香合トテ、天下ノ名物アリ。何時ゾ御見セアルベシ、是ハ東山義政ノ、重器ノ一ツナリシ ヲ、御先祖ヘ進上セラレシ物也。形ハ二寸バカリニ、二寸五分バカリノスミアカニテ、甲ニ雉ノ雌雄ヲ、銀金 貝ニテ入、蓋ノウラニ鐘楼アリ、両方ニ環アリテ、緒ヲ付タリ。環付ヲ銀ニテ、一方ニ物、一方ニかわトアリ。 古風なる物ズキナリ。此香合ト、牧谿ノ三幅對ト、時雨ト云名壺トヲ贈ラレシガ、掛物ト壺トハ、先年ノ火事 ニ消失ス。香合バカリハ、今ニ傳レリ。一旦後西院ヘ献上セラレシヲ、御家ノ道具ナレバトテ、准后ヘ又進ゼラレシト也。是ニ付テ、古キ蒔繪ノ道具ヲ、源平ト云、源平ト東山トハ、凡ソ三百年隔レリ、其間二百年ノ物ニ、 ソレゾレノ次第アリ。是ヲ知ラザレバ目利ハナラズ。此香合ナド、東山ヨリ御家ヘ献ゼラルゝニ、牧谿ト時雨 ト、皆古キ物ニナラベテ、此香合バカリ、東山殿モノズキニテ、新ク拵テ献ゼラルベキヤウナシ。東山殿モ、 古キ物トテ重寶ノ餘リナレバ、其前百年モ以前ノ物ト見エタリト申ス。尤ナルコト也。
・・・・・・・・・・・お床だけ拝見すると、私たちはいつものように、下座の目立たない、隅のところに座りました。もちろんウチの師匠が上座でしたが、ウチの師匠の前に小さな御椅子が置かれており、そこには大変上品な老婦人が座っておられました。
小声ひら:「そういえば先生、あの方、以前に○○茶会で釜を掛けていらしたM様よ」
某製薬会社をお持ちの一族でもいらっしゃるM夫人は温容に笑みをたたえながら席中の皆様をご覧になっておいででした。
お席には台目棚が置かれ、黒棗が置かれていました。若いりりしい男性のお社中が棗濃茶にて代点をして下さいました。
十徳姿の若宗匠も俊敏に席入りされ、張りのある声でご挨拶を始められました。
一閑が作った黒縁高が回ってきました。中を見てみますとお饅頭です。虎屋製と伺いましたが、そのお饅頭には何かマークめいた焼印が押されていました。木のハッパを半分にしたものにツノが2本ほど。何かの虫のようです。
ひら:「んんん、これ、どこかで拝見したことがある。。。。。どこだっけ」
と思っていたら、若宗匠が口を開かれました。
「これは菩提樹饅頭と申しまして、その名の通りお饅頭には菩提樹の葉が焼印で描かれております。ナメクジのように見えるかもしれませんがソウではございません」
ドッと笑い転げるお客様。M夫人もお饅頭を上品に割りつつ「ウフフ」。
「これは一翁忌で使われている流儀好みの菓子です。本来は漉し餡ですが、今回は中身を黄餡にして作ってもらいました」
「ふむふむ」と改めて饅頭の中を見るお客様方。
ひら@陰の声:「あっ、そういえば『お茶のおけいこ5 茶席で話題の銘菓』(千和加子著)に載ってたな・・・・・ご流儀のお好みだったのだね。でも、ここでお留め菓子をいただくことができるなんて〔喜〕」
一翁忌は武者小路千家流の祖である一翁の年回忌です。例年10月に名残の趣で使われており、晩秋の宗和忌茶会に官休庵様がお選びになるお菓子としてこれ以上にふさわしいものはないでしょう。
フトそばを見ると、ウチの師匠は、御椅子に座っておられるM夫人が縁高からお菓子を取りやすいよう手を添えるなど、甲斐甲斐しくM夫人にお世話を申し上げておいででした。
ひら@陰の声:「せんせー、Mさんに細々と気ィつこてはるなぁ」
M夫人はそうこうしているうちに私どもに色々お話をして下さるようになりました。
M夫人:「あの台目棚はね、若宗匠のお好みなのですよ。御覧なさい、あの中柱、新しいでしょう?」
若宗匠のお好みの台目棚は、広間でも小間の雰囲気を大変よく再現できていますので、私が好きなお好み道具の一つです。即中斎宗匠のお好みの台目棚がありますが、若宗匠のお好みは即中斎宗匠好みのものよりも侘びた雰囲気がしているように思います。"台目棚はお稽古用か数寄者の道具であります"と堀内宗心宗匠がどこかで書いておられましたが、本当の小間席で大寄せ茶会をすると人数的にどうしても限界が出ます。ですから、広間で多くの人々に侘びのお茶の雰囲気を知ってもらうために台目棚を活用する。。。。。。。。という考えもあるのかもしれません。
M夫人:「今日のお席ではお水指が素晴らしいわ。御覧なさい、あれは仁清の鬼桶ですよ」
仁清の水指は今までに2度か3度拝見したことがありますが、いずれも長板や高麗卓によく映りそうな、非常に薄造りで優美な作品ばかりでした。
お釜は天明でした。やはり追善にふさわしく法華堂の常什で、わびた釜肌が鬼桶水指や台目棚にマッチしていました。炉縁は木地に控えめな菊桐蒔絵を施したものです。広間で台目棚を使う場合によく映るすてきな炉縁でした。
M夫人は満足げにお道具組みを眺めながら言葉を続けられました。
M夫人:「若宗匠のことは、生まれる前から存じ上げておりましてね、モウ孫みたいなものでございますよ」
そうしているうちにお濃茶が点ちました。
「ん、今日もお茶がおいしい。。。。それにしてもかなり薄手な天目茶碗だな・・・・千家流で天目茶碗の数茶碗を使うのは珍しいな・・・・・・」
お濃茶を喫しながらひらひらは思いました。お茶をいただき終えてお懐紙で飲み口を清めている時、ウチの師匠がささやいてきました。
小声ひら師匠:「ニンセイだからね」
その時若々しい声がしてきました。若宗匠の声です。
若宗匠の言葉に席中がザワザワしてきました。皆様、丹念に御茶碗を拝見し始めました。
ひら@陰の声:「やっぱり仁清の数茶碗ってホントにあるのね。。。。。」
私の大先生は、故三井高公前表千家同門会東京支部長のお水屋をしておりましたが、北三井家では仁清の数茶碗を使うこともあったという思い出話を聞いたことがありました。でも私自身は内心半信半疑でした。
ひらひらは天目茶碗を丁寧に拝見しました。さすが仁清、カナリ薄手の上作で、ろくろさばきの巧みさが印象的です。。。。。
小声ひら師匠:「久しぶりに仁清でお茶をいただいたわ。。。。」
その時、Wさんが口を開きました。
小声Wさん: 「仁清でしたらうちにもございますよ。水指ですけど」
ひらひらは二人に聞こえないよう小さなため息をついたのでした。
。。。。。。。そうしている間にお茶席(濃茶呈茶)が終わりました。
「皆様、どうぞ小間の方に移られて御道具拝見をどうぞ」
係の方々のご挨拶を受けて客一同は立ち上がりました。
お床には、"冗"というご銘の膳所焼の瓢箪茶入が飾られていました。
「おお............!」
茶入から視線を外したひらひらは、茶杓を見るなり小さく嘆声をもらしてしまいました。
そこには、ナント平瀬家伝来の名茶杓「銘 あま小舟」(宗和共筒)があったのです!
ひらひら:「これが典型的な宗和公のお茶杓なのだね。納得だよ。。。。。」
ここぞとばかりにお茶杓の姿を目に焼き付けてきたひらひらなのでした。
................一通りお床を拝見した我々一行は小間の方に参り、お床の前に進み出ました。
「えッ。。。。。こ、これが花入???」
実は、このお茶会の前に、東京宗和会の方から「今回のお茶会の最大の見どころは、若宗匠のお席のお花入"法師"でしょう。槐記にも数度にわたって紹介されている近衞家伝来の重宝ですよ」
宗和公遠忌の茶会に"法師"の御銘がある宗和直書の花入。。。。。。。
ところで、名物花入といえば、普通は、古銅、焼物、竹などの花入が思い浮かぶことが多いかと思います。そして近衞家伝来のお花入といえば、以前に近衞家御別邸の床の間で大感激しながら拝見した青磁花入の名物花入"千声"のイメージが強いひらひらだっただけに、今回の花入"法師"は、ひらひらの先入観を見事に裏切るものでした。まさか木片の花入だったとは。。。。。。。。
若宗匠のお話によりますと、この花入のエピソードがまたユニークなものだったのでした。
江岑が紀州の普請現場で拾い集めた材木の切れ端で好んだ三木町棚を思い起こさせるエピソードですが、どうしてこのような素朴な花入が近衞家の重宝になったのでしょうか?
少し長いのですが、ここで槐記を読んでみましょう。
此花生ハ、天下ニカクレナキ、宗和ノ直作ニシテ、宗和ノ外ニハ、ユメユメコレナキモノナリ、其由來クワシク、寺田無禪カゝレシ書ツケアリ、寺田無禪ガ圍居ノ、普請セシトキ、宗和ミマワレテ、材木ノ切レ端ヲ、モライテ、カヘラレ、其後宗和ニテ、茶湯アリシトキ、コノ花生ニ白ノツバキヲ入レテミセラレシニ、無禪無體ニコイテケレドモクレザリシガ、翌日禮ニユキテ、是非トモト所望セシニヨリテ、クレラレシヲ取カヘリ、應山公ノ御前ニ、持出ラルゝト早應山公ノ仰ニ、宗和ナラデ此形ヲ切ルモノアルベカラズ、宗和乎ト仰セラレシニ、シカゝヾト答フ、大ニ感ゼラレシニ、御銘ノコトヲ願ハレシカバ、清少納言ガ枕草子、ツレヾゝニ引タル心ニテ法師ト名ヅケラレシトナリ、迚ノ義ニ御染筆ヲト願ハレシニ、書付ハ宗和シカルベシトノ仰ユヘ、宗和ニ申シゝカドモ領承セズ、御前ヨリ御書ヲ下サレテ、所望スベキヨシヲアソバシテ下サル、 因テ宗和書付セラル、ウルシドメ也、縄通ノ穴ヨリ、下ノ方ニ法師ト書付アリ、應山公ヨリ無禪ヘ下サレシ、御書付ケアリ、裏書ニ、宗和ハ金森法印ノ子也、金森法印ハ利休時代ニテ、双ナキ茶湯ノ上手 也、宗和ハ茶ノ器量アルニヨリ、法印ノ茶ノ道、全ク傳ハルト云々トアリ、
要するに、宗和公がこの花入に白い椿を入れて無禪を招いたところ、無禪は大感激してこの花入を所望して持ち帰ります。無禪は近衞應山公に花入をお見せすると、公はたちどころに「コレは宗和が作ったものだろう」と看破され、枕草子や徒然草にあるエピソードを下敷きにして"法師"という銘をおつけになったのだそうです。
それにしても、近衞公が一目で「コレは宗和作だろう」と見抜いたのはスゴイ!
今ノ世ノ利休ノ橋ノ坊ノ形ナリトテ、二重ノ節ヲノベテ切タル花生多キモノナリ、ソノ外ニモ是ハ何ノ形、カノ形ナリトテ、多ク出ルハイナコトナリ、總ジテ細工ニテ拵タルモノハ、棗ヲハジメトシテ、其形、此形ト云コトアルベシ、上手ニサヘサセレバ、分厘モ違ヌヤウニナルベキナリ、竹ノ花生ハ、利休ガキリ始タルト云 コトナリ、尤スグレタルモノズキナリ、千萬無量ノ竹ニ、イカヤウノ竹ニテモ同ジコトニテ、寸分チガハヌト云、竹ハナキコトナリ、夫故一本一本ニテ、其人ノ物数寄様ハアリタルモノナリ、常門常ニ仰ラレシ、花生ノ キリカタニハ、全ク法ハナシ、尤窓ノキリヤウ、釘穴ノホリ様ハ、其一流ノトリヤウアリテ、節ノアガリ下リ、 景ノ前後、色ノ厚薄、山キズ等ノコトハ、其人ノ器量ニテ、全ク法ハナキモノナリト、然レバコノ形アノ形ト 云モノハ、アルベキヤウナシ、ソレ是形ノ似タル計ニテ形ニハアラズ。
非常に含蓄の深いことが書いてあります。
ところで枕草子から"法師"という銘をつけたとは、一体ドンナココロがあるのでしょうか?どうも、枕草子の下記の一節から来ているようです。
思はむ子を法師になしたらむこそ、心苦しけれ。
"愛する我が子を法師にしてしまったら、それこそ気の毒だ。世間では、法師をまるで木石などのように思っており、とてもかわいそうだ"という意味のようです。
うーーーーん、何となくお公家さんらしいシニシズムの世界だよ。。。。。。はぁ。
今回のお茶会では、"法師"に白玉椿に榛の木を入れてありました。
宗和作ノ法師ト云ヘル花生ヲ、出シテ御見セナサル、委細書一通ハ、寺田無禪ガ筆ナリ、書状二通ハ冷泉ノ爲條ノ筆ナリ、寺田ノ書ノ趣ニ、或トキ寺田ガ宗和ヘ茶ニ参リタリシニ、此花生ヲカケテ、白玉ニ針ノ木ノ花ヲ 生タリ。餘リ見事サノマゝ所望セシカドモ、其日ハクレラレザリシガ、翌日是非ニ所望シテモライ來リテ、 應山公ヘ御目ニカケシカバ、未ダ何トモ申上ゲヌ中ニ、當代ニ此花生ヲ切ラン人ハ、宗和ナラデハ覺エズト仰 ラレテ、殊ノ外ノ御稱美ナリシ程ニ、御銘ヲ乞シトキ、法師ト名付ラレタリ、枕草子、徒然草ノ意ナリトゾ、 木ノ端ナルガ故ニ名付ラレタリト、迚ノ儀ニ御染筆ヲト願タレバ、是ハ宗和ニカゝスベシト、其トキノ御書ア リ、宗和モ逹テ辭退ノ上ニ、裏ノ剥ギ目ニ、法師ト記サレタリ名物ナリ、總ジテ宗和ノ作ノ物ニ、名ヲ付ラレ タルコトハナキモノナリ、竹ノ花生ニテハ是バカリ、瓢箪ニ齋藤別當ト云、是二ツバカリナリト仰ナリ。
宗和公がこの花入を使った茶席に無禪を招いて大感激させた時、白玉椿に榛の木を入れていたという故事に倣ったのだそうです。
これは、今回の茶会で一番感動的な出来事でした。いとも容易く時空を超えて古人と同じ感動を共有できるという点がお茶の功徳といえましょう。
ところで、この花入には面白いエピソードがあるそうです。
又仰ニ、先方此花生ヲカケテ、常修院殿ヲ呼タリシガ、此花生ニ水ヲヒツタリトシテ、花ヲ生タリシガ、常 修院殿ノ仰ニ、此花生ニハ少シモ水セヌガヨシ、宗和ノ物ズキガ、大根カワキキリタル處ヲ見タテ、切ラレタ ルモノナレバ水ヲシテハ詮ナシ、ソノ上竹ヤ焼物トチガイテ、木ニ水ヲシテハ、色ガ同ジヤウニナリテ、何ノ 詮ナキモノナリト仰ラル、此花生ハ偶ナラデハ御出シナサレズトナリ。
常修院をお招きした時にこの花入を使っていますが、露を打ってあるのを見た常修院は「この花入の場合は、露を打たずに入れたほうがいいだろう。その方が宗和が興を覚えて花入として引き立てた時の木肌の味わいが無くならないので良いのではないだろうか」とおっしゃったそうです。。。。うーーん。。。。色々なエピソードがあるのだね。。。。。。
ひらひらは改めてこのお花入と白い椿をしみじみ拝見したのでした。
続いてお釜拝見しようと炉辺に寄ってみました。会記には"名物 宗和好 八角口 槐記所載
「こっ、コレは・・・・・・(汗)」
ひらひらはお釜を一目見るなり思わずクギつけになってしまいました。
「コレが宗和公好みの名物のお釜..............良く分からないけどミカンみたい(汗)」
ソウなのです。まさしくミカンみたいなお釜でした。
ひらひら:「このお釜には、柄杓が入らないかも..................」
槐記には、このお釜についてどのように書いてあるのでしょうか。
御釜、此釜ニハ由來アル由仰ラル、舊キモノゝ上作モノナリ、コレヲ宗和ガ所持ニテ、此蓋ニテ、釜ヲイサセタシ、如何様ノ形チシカルベカランヤトテ名アル弟子衆ニヲゝセテ、切形ヲサセラレシガ、イヅレモ蓋ノ形ガ、八角ナルニ付テ、釜ニモソノ意ヲ トリテセラレシヲ、宗和ノ物ズキニテ、ナニトシテモ八角トサシアウハ悪カラントテ、何トモシレヌ形ノ、終ニナキ形ニセラレタリ、環付モ形 ノシレヌモノニセラレタルガ、宗和ノ好也ト、イカイ秘蔵ニテアリシヲ、寺田無禪ニヤラレテ、無禪ヨリ、御所エ上ラレシト也、此蓋ハ殊ノ外 名高キモノ也、其頃細川ニ八卦ノ蓋、金森ニハ八角ノ蓋トテ天下ニタレシラヌモノナカリシト也、
ナント、古い上作の蓋から釜を作ったというユニークな経緯で作られたお釜だったのでした。
そう思いつつ、点前畳にある吊棚を拝見すると、そこにはお香合が飾られていました。
『新修 茶道妙境』(千宗守編)にもありますが、愈好斎宗匠が33歳だった大正10年に長らく主がいなかった官休庵を復旧され、復旧披露茶事を70回にわたって催されたことがありますが、その会記に登場しています。そして昭和26年9月に催された還暦茶会にも使用されています。宗匠が一生を通して愛用されたこのお香合の箱蓋表には宗和公のお書付があるのでした。
その下にはどっしりした南蛮縄簾水指がありました。寸松庵伝来で松平周防守蓋袋書付があります。縄簾にあった櫛目がきれいに出ている名品でした。
水指の前には熊川茶碗。これまた水指に負けない存在感のあるお茶碗でした。でも優しい雰囲気のある釉調があり、手にとって拝見してみるとほっとした安らぎを感じる名椀でした。石川丈山の箱書があり、鳥居坂三井家の伝来品です。
勝手付には清浄な木地曲建水とともに宗和好の寄竹蓋置(本歌)がありました。景色のある二種類の竹を組み合わせた創造性ある蓋置でした。
...........こうして、ひらひら一行は金森宗和公350年忌茶会の各お席を巡ることができました。本当に、どのお席も本当に印象深いものばかりでした。
金森宗和公350年忌という節目に、宗和公を慕う有志の方々によってこのような余韻豊かで大変すばらしいご供養にもなったお茶席が催されたことを心よりお慶び申し上げ、参会の機会をいただいたことを深く感謝いたしつつ、ここでレポートを了(お)えたいと思います。
最後に、千宗屋若宗匠のお席のお道具組は下記の通りでした。
一樹庵 濃茶席 主 千宗屋(武者小路千家)
本席
点前席
以上
5.謝辞
執筆 ひらひら氏
このお茶会のために、宗和流14代御家元の頃から茶友会で掛釜を依頼されているなどご縁が深い根津美術館が、閉園中の根津庭園を特別に開放して下さっただけでなく、公卿社会との御茶縁が深い官休庵様の千宗屋若宗匠が協賛釜を掛けておられます。
剃髪した後は、宮中に出入りし、後西天皇や御水尾天皇や東福門院、一条恵観や近衛應山と主に茶を通して交流を深めていきました。彼の茶風は姫宗和と云われる公家風の優美なもので、宮中の茶道に大きな影響を与えました。
たとえば近衛予楽院家煕の口述記である『槐記』には宗和公のエピソードがしばしば出てきています。また後西天皇の御会記を拝見すると、宗和作の茶杓がたびたび使用されていることがわかります。
また、宮中とゆかりの深い大徳寺の僧侶だったとはいえ、武辺である金森家の人間がなぜ宮中の奥深くに入り込むことができたのか?
記録では、寺田石見守正忠の手引きによって近衞家に近づくことができたのが宮中に出入りするきっかけとなっているようですが、公卿の血を引いているわけではない人物が、そう簡単に天皇に近づけるものなのでしょうか?考えてみるとこれも少し不思議です。
実は、"勘当"されたにも関わらず、後々まで宗和公と金森家との間に交わされた消息(手紙)が多々残っており、それを見た限りでは(勘当されたとは思えない)親密な交際の模様がうかがえるのです。
こういうところから"金森家は徳川方につくことにしたが、金森家の血を残すため、敢えて嫡男を「勘当、出家」という形によって家から出し、万一豊臣家が徳川家に勝った時も血が残るようリスクヘッジにした""徳川家の内意を受けて、宮中にスパイとして潜入した""宗和公は、宮中から得た重大情報をお茶壷道中の茶壷の中にひそませて江戸に送った"。。。。。などなどの諸説があるようです。
ここで詳述はしませんが、関ヶ原の戦いの頃には、たとえば加賀の前田家などでも似たような動きがありました(ただし勘当ではなく出家の形)。そう考えると、実家金森家が徳川方として関ヶ原の戦いや大阪の陣で活躍したために江戸時代初期には近世大名として発展したことが、宗和公の宮中での立場を強めた可能性があるのかもしれません。
宗和公の晩年の茶会出席者を見てみると、常修院宮以外の公家の出席は少なく、むしろ武家.............特に京都所司代やその家臣、大阪町奉行、寺院の修理や造営を担当する奉行など幕命を帯びて上洛している武家が多いようです。そういえば、茶室というものは色々な密談もできる場所ですよね...............。
しかし、現在残された会記から宗和公が実際に使用した仁清の茶陶を見てみると、仁清の茶入は全体のわずか1割、茶碗も4割ぐらいです。比較的高い割合で使用されているのは水指や香合。しかもそれらは錆絵の絵付けなど地味なもので、華やかな色絵物はあまりありません。
仁清の窯(御室焼)は宗和公の死後も約40年間続いており、仁清の代表作といわれる京極家の色絵茶壷は宗和公の死後20年後に当たる延宝年間(1673〜81年)に焼かれています。もしかしたら、現在多くのヒトがイメージしている仁清の色絵作品群は、宗和公がプロデュースに関与していない作品なのかもしれないのです............。
宗和公が生まれた時に信長が握っていた権力は、彼が死去した時は徳川家四代将軍家綱が握っていました。信長、秀吉、家康、秀忠、家光、家綱と権力者がうつり代わっていくのを見守りつつ生きてきたということになりますね。
宗和公の長男、七之助が加賀前田家に仕官したことから、宗和流は金沢に伝わりました。しかし七代知直の時に事故あって金森家は途絶え、代わって金沢の名門辰村家が宗和流を受け継いできました。十四代辰村宗榮の時に、親交のあった畠山即翁の勧めで東京に移り、以後宗和流は東京にも伝わっています。
また、金森家の領地である美しい高山の地にも流儀が伝わっており、今日に至っています。
11月中旬ではあるが寒くもなく秋の空気が心地よい、好天の朝でした。
とちょっとだけ立ち止まって工事現場を眺めたひらひらなのでした。
我々3人はソロリソロリと園内の石の段々を降りていきました。
一樹庵 濃茶席 主 千宗屋(武者小路千家若宗匠)
斑鳩庵 展観席 主 根津美術館
ひら師匠:「ホントは官休庵様のお席に先に行きたいけれど、今日のお茶会の趣旨を考えると、先に宗和流のお席に伺った方が。。。。」
ひらひら:「やっぱりそう思われます?そうよねそうよね」
Wさん :「そうですね」
弘仁亭の腰掛で手早く羽織を脱いで袴をつけて、服紗や懐紙などを整えて待ちました。我々が一番乗りでした。
ひらひら:「表千家の茶会だったら開始時間の30分前にはモウけっこう行列ができてるよね」
ひら師匠:「でも今日はゆっくりできそうで良かったじゃない」
ひらひら:「そうだね」
ひら師匠:「であれば、たぶん若宗匠にご挨拶にいらしたのでしょう」
Wさん :「皆様、とてもきれいなお召しね」
ひら師匠:「350年など遠忌の場合は、逆にお祝いとして捉える見方もあるのよ。350年間道統が続いてきたことを寿ぐという意味でね」
ひらひら:「ああ、それ分かるような気がする」
ひらひら:「うん」
彼は控えめな声で「いえいえ」とおっしゃいましたが、ウチの師匠も「どうぞお掛けになって」と重ねてお勧めしましたら「ありがとう」とおっしゃって静かにお掛けになりました。
ひらひらは黙って耳を傾けました。声に張りがある読経です。
ひら師匠:「あのお経、たぶん臨済宗だと思う」
ひらひら:「ふーん、そうなの?」
Wさん :「350年忌のご供養ということなのでしょうね」
ひらひら:「やっぱり、宗和流のお席を先にして良かったかもな〜」
ひら師匠:「そうね」
すると席中には御衣を召したお坊様がいらっしゃいました。
そこには宗和公の肖像が掛けられていました。非常に古いものらしく、背景部分が茶色になっていました。
一礼したひらひらはこの時、宗和公のお顔を初めてまじまじと拝見しました。
おでこがかなり秀でている、皺が多い老体の僧形の肖像がでした。小さいけれど鋭い光を蔵している両眼には、風流を愛した柔弱な公家風のお茶人という印象ではなく、俗世の酸いも甘いも知り尽くした人間という印象がしました。むしろ、信長の実弟でありながら冷静に乱るる世の流れを読みつつ兄亡き後の豊臣、徳川の世を生き抜いた織田有楽をイメージさせる御容貌でした。
而后宜禮続宜中和故於後世天下喜楽之矣
宗和居士六世金森成章拝題
ひらひら:「朝香宮さんもお茶をなさってらしたからね。昭和初期に宮さんのご希望で官休庵様の木津宗泉宗匠のお弟子さんだった名棟梁が白金の宮邸に茶室を建てたのだけれど、今も残ってるよ。東京庭園美術館の日本庭園にある光華庵というお茶室。以前に伺ったことがあるけどシンプルで品のあるいいお茶室だったよ」
ひら師匠:「へぇ」
彼は一度は辞退されましたが、重ねて勧められると静かに腰を上げられて次客にお直りになりました。
小声師匠:「だからいつも言ってるでしょ、お茶の世界は狭いのよ。これからはひらひらも気をつけなさい」
小声ひら:「わ、分かったがな。。。。。。。」
たとえば服紗はひざの上に置いて畳んでおられました。。畳の上には置かないのだそうです。また柄杓を斜めに構えておられるのも大きな特徴でした。私が座っているところからはよく見えませんでしたが、茶巾のたたみ方、茶筅の仕組み方も千家流とは違うようです。
随所に千家流にはない優美で洗練された雰囲気が感じられます。。。。。
炉には阿弥陀堂のお釜がかかっていました。まさに遠忌にピッタリのお釜です。道弥作との由でした。炉縁は爪紅の炉縁で華やいだ雰囲気でした。これは宗和好みだそうです。
「素敵な炉縁ですが、畳より少し高めになるよう置かれていますね」
炉縁の鮮やかな爪紅に目を奪われていて気がつきませんでしたが、確かに少し、1cmほど高くなっています。千家流では畳と同じ高さになるよう炉縁を置いていますので、目を引きました。
ご亭主はにこやかにご説明され、お客様一同は珍しそうに炉縁に視線を集中されました。
そういえば、釜の口も千家流よりも高めになっています。だいたい畳面から5-6cm以上の高さのところに口があります。宗和流では、通常はお釜の口に合を落として柄杓をおくらしいのです。
その前に置かれたお水指(宗和信楽)はやや扁平で大ぶりなもので、上耳がついていました。信楽ですが、どちらかといえば仁清信楽のような穏やかな感じのする青みがかかった肌をしていたように思います。東南アジアの素焼であるハンネラの替蓋が添っていましたが、替蓋は書院に飾られていました。
大きな書院に加えて14畳半もある大広間である弘仁亭は、実は、運び点前をするのは難しい場所です。というのは、運び点前の時は点前畳に水指しか置かないため、水指に相当の存在感がないと席映りが貧弱になりやすいためです。
でも、この宗和信楽水指は堂々とした雰囲気だったのと、爪紅の炉縁が一つのアクセントになっていたのとで、落ち着いた良い雰囲気になっていました。
お菓子のみずみずしい柔らかさを味わいつつ、宗和公のお軸と宗和流ならではの優雅典麗なお点前を拝見する喜び。。。。。
主催者の方からは「このような大寄せは初めてなので、行き届かないところがあるかも・・・・・」と云われておりましたが、とんでもない。一生懸命されていらした若い方々の緊張感が今日の秋天のようにとても爽やか、ゆったりしていても決してもたついておらず、とてもいい雰囲気で良かったです。
我々はもう一度お床をよくよく拝見、続いて好仁亭の書院に並んでいるお道具を左から丁寧に拝見していきました。
公卿階級では、明治時代まで男女ともに喫煙がごく普通で、莨盆は日常的な必需品でした("女が喫煙なんて・・・"というのはむしろ武家の感覚です)。小さな抽斗などがついているなど千家流の莨盆より格段に実用的な造りになっているのはそういう背景があるためなのかなと思いつつ拝見しました。
主茶碗に樂茶碗をお使いになっていないところが、やはり千家流ではないお茶だなと思いました。樂茶碗は千利休が創案したものなので、千家流とは一線を画する立場にある武家茶や公家茶などでは基本的に楽茶碗を使用しないようです。たとえば拙宅にある有栖川宮家の幕末の頃の御茶会の記録を見てみますと、主茶碗に高麗茶碗が使われています。
追善かつ遠忌のお祝いにふさわしい文様です。薩摩という華やかなものを替え茶碗に使うところに宗和流の感性が伺われて良かったです。
お茶杓はすっきりした美しい姿で、櫂先が二段タメになっていました。典型的な宗和流の形です。今は亡き宗榮御家元の御多才ぶりがうかがわれる佳品でした。
芳園其多矣物其嘉矣菁菁茗茶衆人美愛之無窮也
而后宜禮続宜中和故於後世天下喜楽之矣
宗和居士六世金森成章拝題
供茶 桐銀彩天目 朝香宮ヨリ拝領
釜 阿弥陀堂 道弥作
炉縁 宗和好 爪紅
風炉先 金森七之助好
水指 宗和信楽 上耳付 ハンネラ替蓋添フ
茶器 菊桐蒔絵大棗 宗哲作
茶碗 十四代 宗榮手造 萩 銘 初霜
替 薩摩 胡蝶図
茶杓 十四代 宗榮共筒 銘 おもかげ
蓋置 宗和好 竹
建水 毛織 淨益作
菓子 菊寿 鶴屋八幡 製
器 呉州赤絵鉢
莨盆 宗和好 溜塗手付
火入 古染付
以上
そこでは根津美術館が濃茶展観席を持たれていました。
珍しいまでに美男子のいなせな庭師さんが下足をしていましたが、彼のお世話で本席に上がらせていただきました。
この香炉は、千利休―古田織部―後水尾天皇―小堀遠州―伊達家―藤田家―根津家という錚々たる伝来を誇ります。しかも、宗和公ともご縁がある名品でもあります。
この香炉と宗和公とのご縁は、香炉の上に掛けてあった御掛物が雄弁に物語っていました。後水尾天皇宸翰の此世香炉消息(重要美術品)です。この御消息は天皇から一条恵観公(摂政殿)に宛ててしたためられたもので、こう書かれています。
來月十日前なりかたく候闖\日過十一日にても
二日にても吉日候哉先内々に候尋候て尤候也
此よ香爐遠江ミセ申候
宗和ニミセらるべく候明日の義
無相違候哉左様ニ候ばとてもの事
に時分おそくなり候はぬよう憑度候
可様の義わろくすればおそく
なり候迷惑申候 一笑々々
霜廿六
攝政とのへ
彼も茶人で、彼が遺(のこ)した茶室"恵観山荘(金森宗和設計)"は、現在鎌倉(宗偏流御家元)に残っていますが、一条公自身も宗和公に大変傾倒していたようです。
一條惠寛公ヘ宗和ヲ召サレテ、臺子ヲ御所望アリシニ、臺子ニ向ヒテ柄杓ヲ取リ、次ノ間ニ立テ、柄杓ノ柄 ヲ五分短クセラレタリ、惠寛公コレヨリ大ニ、宗和ヲ信ゼラレシト也。(此コト前ニ記ス、)
誰もいない茶室で、この上なく時と場を得た形で名品を拝見する喜び。。。。。。
美術館などでは絶対に味わえない奥深い味わい、大変思い出深いひとときでした。
ひらひら:「本当に今日のためにあるような香炉で。。。。。。」
ひら師匠:「ホントにね〜」
ひらひら:「昔は、こういう名品はなかなか拝見できなかったのに。。。。特に、こういう御宸翰を拝見する時は、衣服を改めて畳一畳分隔てて拝見するのが習いだったものよ」
ひら師匠:「今はソウいう時代ではないッ、さあさ前に出てよくよく拝見なさいッ」
Wさん:「...................(汗)」
ウチの師匠の体育会的リアクションに慣れている文科系タイプのひらひら(笑)は気を取り直して香炉の前ににじり寄って香炉をうやうやしく拝見。
この香炉は遠州から仙台藩主伊達家の所有になってからずっと伊達家の蔵に秘蔵されてきましたが、長い沈黙を破って世上にその姿を現したのは大正4年でした。
旧仙台藩主伊達侯爵家が"此世"をはじめとする家蔵の美術品の数々を売立(オークション)に出品したのです。
明治になって三井・住友・岩崎・鴻池など新興財閥が経済力をつけてきたのに反して、近代的な経済基盤を持っていない旧大名華族は経済的に窮するようになりました。そこで家蔵の美術品を売立に出して換金するようになりました。
売立に出品された道具は、近代の新興財閥や有力経済人(益田鈍翁など)の蔵に移っていきましたが、その嚆矢となったのが伊達家売立だったのです。
当時の茶道界で大活躍した高橋箒庵は「茶道具は積極的に買うべき。片っ端から値上がりしていくから」というあまりにもバブリーな(笑)セリフを残していますが、値上がりどころかこんなに値下がりしたのは珍しいケースです。
実は、大正4年に落札した藤田家お出入りの道具商が、藤田家に納める直前にこの香炉を誤って割ってしまったのだそうです(汗)。
そのため藤田家売立に出品された時は、14年前には想像もしなかった見るも無残な繕いのある姿で出品されたのだそうです。。。。。。。
香炉を拝見しているひらひらの脳裏に、利休居士、織部、後水尾天皇、遠州、伊達政宗(晩年の彼はなかなかの茶人だった)や伊達綱村、藤田伝三郎、根津嘉一郎らの顔が、そして先刻に弘仁亭で拝見したばかりの宗和公の顔が去来していきました。
でも、我々茶人の目から見れば、茶席のご趣向(時と場)にこの上なく適(かな)っていれば、お道具についているキズなどドウでもいいのです。宗和公にゆかりがあり、かつ追善の趣向にマッチしたご銘があれば、それだけで十分すばらしいではありませんか?
もし他の香炉が出ていたら、たとえそれが完品であっても、(少なくとも私自身は)ここまで感銘を受けなかった。。。。。。。だろうと思います。
この辺が、一般の道具商と茶人の眼の違いなのかもしれないなと思います。
久以作の沢栗の炉縁-----------これも一級品だ---------に、宗和公所持の芦屋釜が掛かっていました。円筒形の形をしていて、縦に縞模様がありました。銘を伺って納得。鶉籠だそうです。鶉を入れる鳥籠を模したものらしい。宗和公が愛した釜だそうですが、トリが大好きなひらひらとしては心ひかれる一品でした。この釜には裏千家中興の祖玄々斎の御書付が添っていました。
女子高生みたいな散文的第一声を口走ってしまったひらひらに、ウチの師匠は「やれやれ・・・・・(>_<)」の顔でした。
やや尻がふくれている撫肩衝形ですが、黒飴釉に黄色い釉のなだれがあってそこが見どころになっています。
挽家・内箱に小堀遠州の書付がありました。紺地雲文緞子・萌黄地牡丹唐草文金襴の袋もありました。そして伝来もすばらしく、小堀遠州―土屋相模守―堀越越中守―島原藩主松平主殿守です。根津家には大正7年に入ったようです。やはり御床道具とバランスをとるには、このような名品を取り合わせる必要があったということなのでしょうか。
美術館員:「そうですね、これはもともと抹茶碗として作られてはいないのだと思われます」
ひらひら:「なるほどそういうことでございましたか」
どことなく苦労人らしい雰囲気が伝わってくる剛毅な雰囲気の茶杓でした。個人的に、何となく共感を覚える雰囲気があります。。。。
実は、宗和公も千家流のお茶の影響を受けているといわれています。というのは、利休から勘当された実子の道安は飛騨高山に居たと言われ、宗和の父、金森可重は道安から茶の指導を受けたといわれています。その関係で宗和公も道安の影響を受けているそうです。茶杓も今回の追善にふさわしい、流祖の師系をふまえた、格調高いお取り合わせだったのでした。
かくしてひらひら一行は美男子の下足に見送られつつ、満ち足りた心で、千宗屋若宗匠がおいでになる一樹庵に向かったのでした。。。。
いよいよこのお茶会のクライマックスです!
床 伝俵屋宗達筆 菊花図扇面
香合 交趾 鴨
炭斗 唐物 八角籠
羽箒 替鶴 遠州箱
火箸 桑柄 利休所持
鐶 明珍 在銘
釜敷 唐物 籐組
灰器 長次郎作 了々斎箱書
灰匙 時代 桑柄
床 重要美術品
後水尾天皇宸翰 此世香炉消息
此よ香炉遠江ミセ申候
宗和ニミセらるべく候明日の義
無相違候哉左様二候ばとてもの事 云々
香炉 重要美術品 名物
井戸 銘 此世
内箱 千利休筆 外箱 小堀遠州筆
仕覆箱書 伊達綱村筆
伝来 千利休―古田織部―後水尾天皇―小堀遠州―伊達家―藤田家
根来卓ニ載セテ
炉縁 沢栗 久似作
水指 安南蓮華文 宗和箱書 仁清替蓋二枚添フ
茶入 中興名物
瀬戸正木手 銘 正木
挽家・内箱 小堀遠州筆
仕覆 紺地雲文緞子・萌黄地牡丹唐草文金襴
伝来 小堀遠州―土屋相模守―堀越越中守―島原藩主松平主殿守
茶碗 狂言袴 銘 ひき木
内箱 宗和筆 外箱 久須美疎安筆
茶杓 道安作 随流斎筒
蓋置 青竹
建水 木地曲
見渡せばふかみどりの世界、去り行く秋の根津の苑。。。。。
席待ち中のおしゃべりにも飽きて手持ち無沙汰になってきた頃、何気なく目の先のつくばいに視線を投げたひらひら、思わず師匠の袖を引っ張ってしまいました。
ひら師匠「あ、本当ね」
Wさん 「つくばいね、これをキレイに洗うのって大変なのよね」
ひら師匠「以前ひらひらにつくばいを洗ってもらったことあったよね」
ひらひら「ソウなんですよ。つくばいの場合、洗面台のように排水用の穴がないでしょ。洗い終わった後の汚れた水を出すのが大変たいへん」
Wさん 「何度も水をかき出してね、最期は雑巾できれいに拭くのよね。その後シートをかけて落ち葉などを防ぐのだけれど、ずっとかけておくとつくばいの中にカビが生えることもあるのよね」
ひらひら「この季節につくばいを洗ったら、手がかじかんでしまって大変だと思う。官休庵様も根津さんも本当にここまでご丁寧になさって。。。。。」
Wさん 「そうね、もう水が冷たくなってるからね。。。。。。」
雪村周継筆の"瀟湘八景図"です。明治大正の大政商だった久原家の旧蔵品です。
若宗匠のお話によりますと、宗和公の茶会記を見てみると雪村を好んで使用していたらしく、しかもその中に「雪村 八景」という形で雪村の瀟湘八景図が使用していることが分かりましたのでこの"瀟湘八景図"をお出しになったそうです。中世絵画の研究をされており「もっと茶席に絵画を取り入れても良いのでは」とお考えになっておられる若宗匠のお席らしいお掛物でした。濃茶の呈茶という重くもあり、さりとてあまり重すぎてもいけない席にはちょうど良いお掛物でした。
以前に、京都・御室の近衞家御別邸 虎山荘でのお茶会で本歌を拝見したことがありますが、大きさといい、紐の造りといい本歌にそっくりでした。ただ、本歌よりも古い感じがしました。近衞家御別邸で拝見した時は初夏の明るい昼下がりの中でしたら、梨地に蒔絵が私の眼にきれいに輝いておりました。が、それはおそらく光の加減だったのかもしれません。
ひらひら:「もともとは東山御物(足利義政将軍の宝物)だったのだけれど近衞家に献上されて以来近衞家の家宝になっていたのよ。新古今集の"待つ宵に深けゆくかねの声きけば、飽かぬわかれの鶏はものかは"という歌をモチーフにデザインされたもので、紐をつけるための環付が銀でできているのだけれど、片方が"物"、もう片方が"かは"という字を象ったものになっているのでものかは香箱と呼ばれるようになったのね。ホラ蓋には鶏の蒔絵があるでしょ。それは例の和歌からよ」
ひら師匠:「やはり近衞家ゆかりだからお出しになったのかしら」
ひらひら:「近衞文麿公は若宗匠のひいおじい様にあたる愈好斎宗匠の筆頭門人でいらっしゃるのよ。その縁で昭和15年に弘道庵がお家元内に再建された頃、お成りになったことがあるのだけれど、その弘道庵の扁額は文麿公のお筆なのよ。ひらひらが以前に伺った虎山荘のお茶室は愈好斎宗匠がご設計なさったのだけれど、その御礼としてこのものかは香箱の写しを下賜なさったんですって」
ひら師匠:「なるほど」
小声ひら師匠:「ええ、そうね」
若宗匠はなめらかな口調で続けました。
ひらひら:「ええ、そうですね。若宗匠は台目棚をお使いになることが多いようですね」
若宗匠のお好み台目棚の釘の形状や材質などをよくよく拝見したかったのですが、今回も素晴らしいお道具の数々に目を奪われてしまい、お好み棚をじっくり拝見しそびれたのが少し残念でした(即中斎好みの台目棚の釘と同じ形状なのか以前から興味があったのですが。。。。。。。)。
表千家での中柱の釘への仕覆の掛け方と官休庵様の中柱の釘への仕覆の掛け方など色々拝見しておきたいことがあっただけに、私の目配りの至らなさが口惜しいです。
ひらひら:「本当に。。。。宗和公にちなんでのお道具組みですね。それにしても本当に大きいのね。流れ釉が仁清とは思えないほどダイナミックな感じで。。。。。。」
土物である仁清信楽の水指もやはり洗練された感じがしますが、今回のような力強い雰囲気の作品は初めてで大変珍しいものでした。
ひら&ひら師匠:「マアそうですか〜( ̄▽ ̄)」
お正客には了入の木守写でお茶を差し上げておられました。やはり季節柄好適な御茶碗です。
我々一同には天目茶碗で御濃茶をいただきました。小ぶりな、柿釉の天目茶碗です。
小声ひらひら:「はぁ。。。。。。」
小声ひら師匠:「だからその天目茶碗は仁清なのよ」
小声ひらひら:「えッ?」
小声ひら師匠:「そうっと、丁寧に清めるようにしてね」
小声ひらひら:「あわわわ。。。。。」
「この仁清の数茶碗は、今日のために京都から運んできたものです(^^)」
"永楽ならともかく、いくらなんでも仁清の数茶碗はないでしょう"
それだけに、今日仁清の数茶碗を実見した時のひらひらの感想は、「ホントにあるんだ。。。。」という驚きでした。
小声ひらひら:「えっ、初めてではなかったの?ひらひらなんか初めてだったよ。。。。。はぁ」
小声ひら師匠:「仁清でお茶、召し上がっている方は召し上がっているものなのよ」
小声ひらひら:「そ、そうなの?」
小声ひらひら:「はぁ、そうなんですか。。。。。あるところにはあるということなのだね。。。。。はぁ」
私たちはM夫人に御相伴御礼のご挨拶を申し上げた後、床の間に飾られたお書付の数々を拝見しました。
この小曾根家伝来のお茶入には宗和公筆の内箱に愈好斎宗匠筆の外箱が添っているという豪華なもので、金入亀甲文緞子、三色間道の仕覆がついていました。遠州七窯の一つであり元和年間(1615〜24年)に興った膳所窯に宗和公(明暦2(1656)年没)の書付があるという点が印象的でした。ほぼ同じ時代だった遠州公と宗和公の間にはどのような交流があったのでしょう。何とはなしに興味を引かれるお茶入でした。
ところで、このお茶入の仕覆に亀甲文緞子がありましたが、宗和公の長男七之助が仕官した加賀前田家より亀甲紋を拝領して以来、宗和流では二重亀甲を紋としているのだそうです。宗和流にとっては縁が深い裂だったのですね。
数ある平瀬家蔵の茶杓の中でも特に秘蔵されてきたと云われているこの茶杓は、宗和作の代表的なものと云われています。ひらひらは今日の茶会に参会する前の晩に『美を見抜く 眼の力』(戸田鍾之助・博氏著)で宗和流の茶杓の特徴を予習してきたのですが、その本の中で"宗和流の茶杓の手本"として紹介されていた「あま小舟」そのものが目の前にあったわけです..............本当にビックリしました.................というわけでよくよく拝見。
「あま小舟」の写真を見てもお分かりですが、宗和公の茶杓の特徴はかなりハッキリしています。櫂先がキッパリした二段矯めになっており、その先が一文字に斜めに切ってあるのです。薄くシミが出た胡麻竹で節下が角削りになっていました。
ひら師匠:「どういうところが宗和公の茶杓の特徴なの」
ひらひら:「それはネ。。。。。。(と昨夜読んだ本の受け売りをする)。。。。。。。そして、この筒書が特にいいんだって。"阿満小舟"って一気に書いてあるけど、まるで一行幅みたいに伸びやかに書いてあるでしょ?そこが絶賛されるポイントらしいよ。あと花押がモウ宗和の花押の見本みたいに整っているんだって。ウン折角の機会なんだからよくよく見ておかなくちゃ」
ひら師匠:「なるほど.................」
しかし、思ったのですが、何の予備知識がまったく無いヒトが"あま小舟"茶杓を拝見したら、ドウ思うのでしょうか。"公家風のお茶"をしていたヒトだと思うだろうか。。。。。。。。いみじくも名茶杓師池田瓢阿氏は宗和公の茶杓を見て「宗和の茶杓には非常に力強いものがある」と評していましたが、あの竹を二段に矯めるという発想は、かなり剛毅なヒトでないとできないような気がします。。。。。。。。
ひらひらは一瞬固まってしまいました。
今日の床の間の正面には大きな木片が掛かっていました。まるで線路の枕木が朽ちたような木片。。。。。。(汗)
と伺っていたので、カナリ期待していたのでした。
宗和公のパトロンだった近衞應山公が「利休は園城寺、宗和は法師」とまで言い切ったほど高く評価していた花入です。偶然なことに御銘が遠忌にぴたり当てはまっています。本当に、茶会の趣旨にこの上なく適ったお花入です。
あるとき、寺田無禪という宗和公の茶友が自宅を普請していた時、宗和公が現場視察に来ました。その時に現場に落ちていた材木の切れ端を持って帰って作った花入なのだそうです。ひらひらが「線路の枕木の切れ端みたい」と思ったのは、あながち間違っていなかったようです(笑)。
(槐記、享保十九年四月十一日)
近衞公は「宗和に"法師"の銘を直書きさせよ」と命じられましたが宗和公は「おそれ多い」と固辞しました。そこで近衞公はわざわざ銘の書付を所望する旨の親書を送り、それを拝読した宗和公はようやく直書きをした。。。。。のだそうです。
この点についても槐記に面白いことが書いてあります。
總ジテ此手、アノ手ト云コトアルハズナリ、タトヘバ、キヌタノ手、七官ノ手ト云、青磁ハ形ニハ非ズ、性ノコトナリ、似テ非ナルコトナリ、宗和の花生ニハ總ジテ銘ハナキモノナリト承ル、法師ト云フ、木ノ花生ト 齋藤別當ト云、フクベノ花生トノミナリト仰ラル。ソノ花生中ノ法師ヲ拝見ス、又類アルベキモノニ非ズ、二ツト切ラルベキモノニ非ズ、切テモ此形ノ木二本トハアルベカラズ、アリタリトモ面白カルベカラズ、コレニ テコソ天下ノ名物ニテアルベケレ、分厘チガハズニ、コシラヘラルゝモノナラバ、其時代ノ竹ニテ切ラバ其作ト云テモナルベキコトナリ、コノ法師ハ不思議ノコトニテ拝見ヲユルサル、見ゴトナルコトハ申モオロカ、凡 慮ノ及ベキコトニアラズ、法師ノ花生ノコトハ前ニ記タルト覺ユ。
(槐記、享保十六年四月晦日)
近衞公は、要するに"寸法や形などにこだわりすぎることなく、素材をよく活かして道具を作らねばならない"という信念を持っておられたのです。
宗和公の"法師"は、木材の切れ端という素材を巧みに活かして作ってあったために近衞公は絶賛し、宗和公の好み道具にはめったに銘をつけないという通例があったにも関わらずわざわざ"法師"という銘をつけるという破格の扱いをしています。
ただ木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。
そのココロは。。。。。。
それも槐記に書いてあるそうです。
(槐記、享保十五年五月十日夜)
つまり、平成時代の我々は、この花入と花を拝見することによって時空を超えて寺田無禪と同じ世界に身を置くことができたのです。。。。。。。
(槐記、享保十五年五月十日夜)
(近衞予楽院張紙 寺田無禅箱並二添状)"とあります。愈好斎宗匠お好みの沈香の炉縁の中に納まっている名物のお釜は、ドンナお釜なのだろうと楽しみにしていました。
やや茄子茶入に近い形の柚子肌に、非常に小さな..............柄杓の合が入るか入らないかと思われるほど小さな..............八角形の口があるお釜だったのでした。蓋も八角形になっています。それがミカンの蔕に見えたのでした(苦笑)。
ひら師匠:「昔は釜に合わせて柄杓を作っていたからね」
ひらひら:「あ、そうだった」
ひら師匠:「むかし最初から茶釜として作られた古釜は総じて口が小さいのよ。そうでない古釜は飯釜などから転用されたものが多いということなのね」
ひらひら:「なるほど」
三寸バカリアルベキカ、唐金ニテ八角ノカド、スコシシノギアリテ、甲ノ 内ヲキ、言ンカタナシ、釜ノ口ニテ、少シコシキアリ一分バカリナリ、
(槐記、享保十四年正月七日)
それにしても、その蓋がもともと添っていたオリジナルの釜は、一体どのような釜だったのでしょうね。。。。。
とても落ち着いた青磁釉の台牛香合です。
「ああ、これが千宗屋若宗匠の曽祖父上、愈好斎宗匠がお好きだった青磁の牛のお香合だね」
しかし、それにしても、茶杓"あま小舟"、法師花入、八角口のお釜、寄竹蓋置、そして数々の宗和公所持の名品などを拝見するにつけ、宗和公は、謎めいた政治的人間である前に非常にクリエイティブな............織部にも通じるところがある..............そういえば千宗旦は宗和公だけでなく織部に対しても批判的なスタンスを取っていましたね..............ヒトだったような気がしてきました。
古人ゆかりのお茶道具を拝見していると、350年の時を経ていてもその古人が一人のいきいきとした個性ある人間として我々の前に具現してくる、そういう不思議な感覚.............これは万巻の歴史書をひもといても味わうことができない感覚でしょう.............に身を包まれたようなお茶会でした。
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床 名物 宗和作木花入 銘 法師
近衞應山公信尋御銘
内箱 寺田無禪筆 外箱 近衞予楽院家煕筆
應山公・寺田無禪・冷泉為條文添フ
近衞家伝来 槐記所載
花 白玉椿 榛の木
香合 伝来 青磁 牛 宗和箱書 愈好斎遺愛
釜 名物 宗和好 八角口 槐記所載
近衞予楽院張紙 寺田無禅箱並二添状
炉縁 愈好斎好 沈香
水指 南蛮縄簾 寸松庵伝来 松平周防守蓋袋書付
茶入 膳所 瓢箪 銘 冗 小曾根家伝来
内箱 宗和筆 外箱 愈好斎筆
仕覆 金入亀甲文緞子・三色間道
茶碗 熊川 石川丈山箱書 鳥居坂三井家伝来
茶杓 宗和共筒 銘 あま小舟 平瀬家伝来
蓋置 宗和好 寄竹 本歌 宗和箱
建水 木地曲
床 雪村周継筆 瀟湘八景図 久原家伝来
脇 ものかは香箱写 近衞文麿公ヨリ愈好斎拝領
釜 天明 法華堂常什
炉縁 木地 菊桐蒔絵
水指 仁清 流れ釉 鬼桶
棚 台目 自好
御茶 福聚の昔 自好 柳櫻園 詰
菓子 菩提樹饅頭 虎屋 製
器 黒 縁高 一閑 造
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(完)
この場をお借りして篤く御礼を申し上げます。
「影凌亂」 http://www.udgw.jp/logos/chado/chajin/kanamori_sowa.html
fluttering_hirahira@yahoo.co.jp